ペンソノで沈没生活1日目 イグアス移住地の農協へ パラグアイその3

2012年1月19日 木曜日

昨日3日間にわたる大移動を終え、落ち着いたのが

パラグアイのイグアス移住地にあるペンション園田さん、

略してペンソノ。

今日からこのペンソノで1週間弱沈没生活を送る予定です。

世界旅をしている人たちの間で、
同じ宿や街で長く滞在し、何もしないでのんびりすることを“沈没”と呼んでいます。

このペンソノがあるのはイグアス移住地という日本人居住地。

日本からちょうど地球の反対側にあるパラグアイ。
あまり日本では知られていないこのパラグアイに現在約7000人の日本人および日系人が住んでいるそうです。

パラグアイ移住の歴史。

パラグアイへの日本人移住の歴史は、1936年に始まりました。
他の中南米の国への移住と比べるとパラグアイへの移住は比較的遅かったそうです。
(メキシコへの移住開始は1897年、ペルーへは1899年、ブラジルへは1908年に移住開始)

1934年、ブラ ジル政府は、新規移住を制限する法律を公布したため、他の移住先を探すことになりました。
翌年、日本政府はアスンシオンから南東約130Kmにある現在ラ・コルメナと名付けられている土地を購入することを決定、
パラグアイ政府は、日本人移民100家族を受け入れる許可を出しました。

1935年5月、ブラジルで入植経験がある4家族33名の日本人が、新しい移民を指導する目的で、ラ・コルメナ移住地に到着、
その後さらに4家族36名が到着しました。
これが最初の日本人のパラグアイ移住でした。

その後、11家族81名が日本から最初のパラグアイ移民として到着、第2次世界大戦により日本人移住が途絶える1941年まで、
計123家族790人が入植しました。

入植者は、熱帯林を切り開き、綿花、柑橘類、米、サトウキビなどの農作物を栽培すべく、耕地を準備しましたが、
インフラの未整備、特に道路不足が、農作物を商品化する上で大きな障害となっていたそうです。

第2次世界大戦後、日本人移住は1952年に再開され、パラグアイで2カ所目のチャベス移住地が創設されました。
増加する日本人移住者に対してチャベス移住地の土地が不足する事態となったため、
1955年にフラム移住地への入植を開始、その後、1956年にフジ移住地、1957年にラ・パス移住地、サンタ・ロサ移住地にまで拡大しました。

1960年、イグアス移住地が創設され、パラグアイで最も日本人移住者の多い移住地となりました。

現在では、約7000人の日本人及び日系人がパラグアイに居住しており、
移住者の勤勉さと農業開発における貢献 は、パラグアイ国民に高く評価されているそうです。

もっと詳しいパラグアイへの日本人移住の歴史が知りたいという方は、こちらのパラグアイ日本人会連合会のHPをご覧ください。

日系社会という見出しの中に移住の歴史が詳しく書かれています。

ということで、私たちはその移住地の中のイグアス移住地にいます♪

パラグアイはサンタクルスに引き続き真夏。
昼間なんて外を歩くのをためらうほどの日差し。

まだ涼しい方の朝に買い出しに行こうと、朝8時出かけました。

イグアス移住地だけでなくパラグアイは赤土の国。

赤土の中に引かれた石畳を歩いて約10分、
イグアス移住地の中心にある農協へ。

農協です!
なんだか実家に戻った感じが♪

農協の中にはスーパーも。
輸入された日本製品、イグアス移住地で作られた日本食なども売られています。

1番の目的は日本米でしたが・・・
5キロからしか買えず、諦めました。

日本製品はかなり高め。
あと数か月後には日本に帰るのだから我慢しようと諦めました(笑)

ということで、韓国製の素麺や野菜などを買って帰りました。

ペンション園田から大きな通りを渡ったところにスーパーがあります。

そのスーパーの中にもいくつか日本食品が売られています。

いいもの見っけ♪

お味噌!

ここイグアスで作られたものでした♪
しかも安い!

さっそく朝からお味噌汁☆

そしてこのお味噌が当たり!!
手作り感たっぷりお味噌はザ☆家庭の味的なお味噌汁になりました♪

明日からもイグアス移住地で食べれる日本食が楽しみだ!

ひたすら暑さと戦いながらのんびり過ごした1日、
夜はみんなでアサードでした♪

ペンション園田に30日以上滞在し、明日日本に帰国するという方のお別れ会に偶然居合わせたのでした。

ペンソノスタッフによるアサードは豪快!

私の胴ぐらいの大きさのあさるお肉を塩でもみ、網の上へ。

出来上がった牛肉焼きとチョリソー。

これが豚。

そしてハツの串刺しまで。

おいしかった~~~♪

御馳走様でした!

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