2011年8月30日 火曜日

朝から電車に乗って、のどかな景色を見ながらクラクフの郊外へ。

「のどかな景色」だなんて感じられるのは、私が今の時代に生き、そして“日本人”だから。

今から約65年前に、同じように電車に乗って、今私たちが目指している場所に向かった人たちは何を思っていたのだろう。

もしくは、何も思うことができなかったのかも。

飲まず食わずで10日間も電車に乗せられていた人もいたそう。
ここに着いた時にはもう。。。

今日、私たちが向かったのはクラクフから電車で約1時間半のOswiecimiuオシフィエンチムという町。
日本ではこのオシフィエンチムのドイツ語名Auschwitzアウシュビッツとして知られている町です。

世界遺産は世界遺産でも、負の世界遺産「アウシュビッツ強制収容所」に行ってきました。

いつもは、移動手段から入る日記ですが、今日はアウシュビッツへの行き方は最後にして、
最初にアウシュビッツで私たちが見てきたことを書きたいと思います。

想像以上に悲惨です。

まずは、アウシュビッツ強制収容所とは。

第2次世界大戦中5年間に及び、ナチス・ドイツによって占領された国の国民たちに恐怖を与え続けた収容所。

ここは戦前、ポーランド軍の基地があったオシフィエンチム市軍撤退跡でした。
この収容所は1940年にポーランド人の政治犯を収容するために設立されました。
当初はポーランド人を虐殺するために利用する予定でしたが、
時間がたつとともにナチスは全ヨーロッパの人間、
主にユダヤ人、そしてジプシーとソ連軍の捕虜をここに送り込み始めました。
それ以外に、囚人にはポーランド人の政治犯、共産主義者、反ナチス活動家、同性愛者などもいました。

収容所内には28の囚人棟があり、一時は2万8000人もの囚人が同時に収容されていたこともあったそうです。

ここへ連れてこられたある者は即座に殺され、ある者は過酷な労働に従事させられた末に殺されました。

囚人の数が増大すると同時に、収容所も拡大していきました。

オシフィエンチムのアウシュビッツ1号は新しい収容所建設の基本となり、
1941年にはオシフィエンチムから2キロ離れたビルケナウに第2の収容所の建設が始まりました。
それはその後アウシュビッツ2号と名付けられ、オシフィエンチムのアウシュビッツ1号よりはるかに広大でした。
その敷地面積は1.4平方キロメートル、300棟以上の囚人棟が並んでいました。

1942年にはオシフィエンチム村付近のモノヴィツェ村にアウシュビッツ3号が、
1942年から1944年にはアウシュビッツ3号の管理下に約40か所の小収容所が建設されました。

アウシュビッツ収容所では150万人が殺害されたとされています。
一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、
このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていないそうです。

アウシュビッツ1号と2号は現在見学が可能。

アウシュビッツ1号のみ5~10月中はガイドツアーでしか見学ができす、英語のガイドツアーに参加して私たちは見学しました。

ガイドツアーはアウシュビッツ1号、2号両方を見学し、所要時間約3時間です。

まずは15分ほどの、アウシュビッツ収容所の概要を紹介する映像を鑑賞。

そして、ガイドさんと一緒にイヤホンで説明を聞きながら有刺鉄線のめぐらされた囚人棟の建つ敷地内へ。

ここからは写真でご紹介します。

“オシフィエンチム(アウシュビッツ1号)”

アウシュビッツ1号の見取り図。

“殺人工場”収容所への入口。
左の建物はSS隊員(アドルフ・ヒトラー武装親衛隊)の衛兵所・収容所事務室。

門の上に書かれた“働けば自由になる”の文字。
これを作った人が皮肉を込め、“B”の文字が逆さまになっているそうです。

ここから有刺鉄線の中へ。

門を入ってすぐ右側にある、毎日オーケストラが演奏をしていた場所。
この収容所から外に働きに行っていた人も。
囚人たちを行進しやすくさせるため、SS隊員が囚人の人数を数えやすくするため、毎日音楽隊が行進曲を演奏していたそうです。

赤レンガの囚人棟。

いくつかの展示がしてある囚人棟へガイドさんと一緒に入りました。

中の展示は、

概要を説明するボード。
このボードからヨーロッパ各地から被収容者が連れてこられたことがわかります。

人の灰。
ビルケナウで収集されたもの。

たくさんの写真で解説。

実物もたくさん展示されています。

この空き缶は、

ガス室で使われた毒薬チクロンBの空き缶。
ガス室で多くの命が一度に奪われたそうです。

これは何だと思いますか?

ここに着いたときに剃られた、もしくはガス室で殺された後に剃られた人の髪です。
この収容所が解放されたとき、7トンもの髪があったそうです。

その髪でマットレスと、布地を作っていたそうです。

収容された人が持参したものはすべて押収されました。

押収されたメガネ。

ガス室で毒殺後、はぎ取った義足、義手など。

トランク。

赤ちゃんの服。

子供のくつ。

部屋いっぱいに積まれた大人のくつ。

靴磨きまで。

廊下の壁にずらっとかけられた囚人たちの写真。
しかし、ここに連れてこられたほとんどの人は写真を撮る前、記録される前に殺されたそうです。

囚人服を着せられた女性たち。

顔写真の下には、いつ連れてこられて、いつ亡くなったかが書かれている。
この女性はここに連れてこられてたった2か月で亡くなった。

ビルケナウのレンガ造りのバラックの模型。

この1つの空間に8人も寝ていたのだとか。

懲罰として後ろ手に縛り体をつるされた杭。

死の壁。
ここで、約数千人が銃殺された。

集団絞首台。

見せしめのために死刑執行された。

鉄線が張り巡らされた囚人棟の敷地内から外に出て向かったのは、

第1ガス室と焼却炉。

アウシュヴィッツでは、日々送られてくる被収容者の効率的な殺害の手段として「ガス室」を研究し、実際に用いたとされる。

ガス室。(復元)

チクロンBを用いたガス室での毒殺では「32分で800名の処刑が可能であった」とされる。

シャワーを浴びるとだまされて、洋服を脱ぎこの部屋に入ったそう。

ガス室の天井には水が出たことのないシャワーは取り付けてあった。

ガス室の隣には、死体を焼却する焼却炉が。

ここでアウシュビッツ1号の見学は終了。
この後無料シャトルバスに乗り、アウシュビッツ2号のビルケナウへ。

“ビルケナウ(アウシュビッツ2号)”

1941年に建設が開始され、1945年にソ連によって解放されるまでに数十万人の命が奪われたという。

ビルケナウ正門。
別名「死の門」。

ここを入ると目の前には広大な敷地が広がっている。
その広さ175ヘクタール。
ほとんどの建物は現存していないので、草原のようになっているが、ここに300棟以上もの囚人棟があった。

現存している囚人棟。

木造の囚人棟。

中へ。

もともと52頭の馬用に造られた小屋に、3段ベッドがいくつも並べられ、この中に1000人ほどが収容されていた。

シングルベッドよりはるかに狭い1段に2人寝ていたのだとか。

正門からまっすぐ収容所内に伸びる鉄道の引き込み線。

ただ、東ヨーロッパへ移住させられるとだけ信じて、ドイツ統治下の各地より貨車などで運ばれてきた人たちは、ここで降ろされ、「労働者」「人体実験の検体」、そして「価値なし」などに選別れた。

価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分となる。その多くが「女性、子供、老人」であったとされる。

到着後すぐにガス室送りにされずに収容された人たちも、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる。

これが選別中の場面。
右奥にいる人たちは年老いた男性たち。つまり「価値なし」と選別された人たち。

彼らが向かう先にはガス室と焼却炉がある方向。

“死の行進”という題名がついた写真。

子供たち、つまり価値なしに選別された人たち。
彼らが向かっている先も別のガス室と焼却炉。

ここが上の写真で歩いている場所。

破壊されたガス室。
アウシュビッツ1号で復元されたガス室よりはるかに大きいガス室。

破壊された焼却炉。

このビルケナウには4棟のガス室と焼却炉があった。

焼却炉の煙突からにおってくる異様なにおいで、子供たちですらこの後の自分たちの運命が分かっていたそう。

引き込み線の一番奥にある国際慰霊碑。

これで、約3時間のガイドツアーは終了。

まだまだ見るところはいっぱいありますが、これをすべて見ようとすれば丸1日必要だと思います。

子供のころから、うちにあったシンドラーのリストを見たり、中学で社会を教えていた父が集めたアウシュビッツの写真集を見たり、その悲惨さは少しは知っていたつもり。

でも、実際に自分の目で見たアウシュビッツは想像をはるかに越えたものだった。

越えすぎていて、そこにそんな事実があったことが信じられないくらいだった。

今は緑のしげる野原に何万人もの人が収容され、がれきの山となった場所で一度に数百人が毒殺されたなんて、想像しようにもその数が多すぎて全然現実とは思えなかった。

それでも、その当時の写真や残されたものがその悲惨さを伝えていた。

私たちのガイドをしてくれた女性は、このアウシュビッツに収容された人の孫だった。
実際に収容された人から聞いた話をしてくれたとき、やっと少し現実なんだと思えた。

私がここに載せた写真なんて、この広大な収容所のほんの一部。
ぜひ、一度実際に訪れてみてほしい。

クラクフからアウシュビッツへの行き方は次の回で書きます。

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